昔、みっつの願いがかなうという人形の話を聞いたことがある。その人形をプレゼントされた自分は二つの願いをかなえてもらった。小さい頃の、他愛ないママゴトだった。
片翼の天使
最近の自分は何か不思議な感覚にとらわれている。既視感――とは少し、違うと思う。いや、今までも何かすこし自分はおかしかった。自分には不思議な感覚が以前からあった。それが最近は特に強くなった感じだ。
今までは、ずっと何かを待っていた。何を待っているのかも分からない。それが不思議で、そして不安でたまらなくなって泣いた日もあった。それが今では待つという感覚が消えて、もうすぐ待っていた何かが起こる。そんな不思議な感覚と期待が日に日に強くなっている。
最近の夢も何か変だ。小さい頃の、昔の夢ばかり見るのだ。自分が小学生の頃だったか、小さい頃に誰かと二人で遊んでいて、それがうれしくて、でもとても悲しいことがあって自分はずっと泣いていて、そしたらその子が慰めてくれて、そして3つの願いがかなうという天使の人形をその子からプレゼントされた。はじめに願ったのは、家に帰っても自分のことを忘れないでほしいということだった。冬休みの間だけ来ていて、もうすぐ地元に帰っていくというその子は、また来年も再来年も会いに行くと約束してくれた。
今見ている夢はなんだろうか。自分は今、どこかの森にいるようだ。その森の一番大きな木の上に登って、そこから町の景色を眺めたりしているみたいだった。下には男の子がいて、その子からプレゼントされた天使の人形をとりだした。
――今日だけ、一緒の学校に通いたい……。
天使の人形にそう願いをこめた。二つ目の願いはただのおママゴトに使ってしまった。その子と一緒に学校に通いたいと、自分たちの秘密の場所である森の中でその子と学校遊びをした。宿題もなくて、テストもなくて、給食はたい焼きがでて、何でも生徒の自由。他愛ない学校遊び。それがとても楽しかった。とても嬉しかった。
でも、楽しかったのはそこまでだった。楽しい夢というのはすぐに覚めてしまうものだ。
目をあけるとカーテンが光を遮断した薄暗い部屋のベットの上だった。昨日は何をしたのか覚えていない。たしか、どこかでお酒を飲んでいたのだろうか。頭がクラクラする。目覚めは最悪だった。
ノソノソとベットから這い上がり、カーテンを開けると夕日の光が飛び込んできた。もうすぐ自分たちの仕事の時間だ。部屋が寒い。暖房をつけて暖をとる。季節は冬。その季節は別に好きでもなんともない。ただ、今年だけは何故か冬が待ち遠しかった。
仲間のたまってる部屋に足を運ぶと、みんなそれぞれ仕事の準備をしていた。あるものは携帯のメールで客をGETできたことを喜び、ある者は念入りにお化粧している。あの子はまだ14歳なのに、女子大生みたいな格好をしている。といっても自分も似たような格好をしているのだが。自分もその子に負けないくらい念入りに化粧をして、ブランド物のシックなコートを羽織って仕事の準備をする。
ネオンの煌く夜の街を徘徊する。自分たちの仕事は簡単だ。男の人に声をかけて遊んだり、体を売ったりする。それが自分たちの仕事だ。もっとも、自分はいつも声をかけられるほうだけれど。
いつからこんなことを始めるようになったんだろう。ふとそんなことを思った。最近の自分はおかしいのだ。昔の夢ばかり見たり、不思議な感覚にとらわれたり、さらに昔の夢は幸せだった頃の夢ばかりだから性質が悪い。現実はとても辛いのに。
小さい頃、母親が死んで、自分は親戚の家に引き取られることになった。そこで待っていたものは養父からの虐待。いま、社会問題になっているやつだ。理由もなくよく殴られたり蹴られたり、犯されたりはしなかったけど、それまがいのことはされそうになった。
そんな生活が一年近く続いた。
毎日が毎日が嫌でたまらなかった。何度、死んだ母のことを憎んだか知れない。お母さんさえ生きていればこんな目にあわなくてすんだのにって。そんなことを考えるのも嫌になって。だから、逃げた。養父の下から自分は逃げた。親の金を盗んで、自分はあてもなく電車に乗って逃げた。
そしてたどり着いたのが今住んでいるこの街だ。ネオンが煌き、客引きやらの喧騒で活気のあってそれでいて淀んだ雰囲気を纏った街。はじめて来た時は、真夜中というのもあって、子供心に不安でしかたがなくて、ただおびえて公園のベンチに座っていた。
そんな自分に声をかけてくれたお兄さん。今思えば、その人は命の恩人かもしれない。そして、今の自分がこんな生活をするようになったのもこの人に会ったからかもしれない。
お兄さんは黒いスーツを着ていて、それで笑顔で自分に声をかけてくれた。「こんな可愛い子が、どうしたのかなぁ?」って、優しい声で言ってくれた。小さい頃から知らない人には声をかけられても付いていくなってお母さんに言いつけられていたので、どこか知らない所に連れて行かれるんじゃないかと不安に思った。でも、家に帰るのはもっと嫌で怖かった。
だから、結局その人に付いていくことになった。案内された雑居ビルの部屋のドアを開けると、10畳くらいの部屋に女の子がいっぱいいた。お兄さんは自分のことを新しく入ってきた子だからって言ってくれて、自分も挨拶して、すぐにその女の子たちに受け入れられた。
男の人と遊んだり、体を売るようになったのはそれからだ。ただ、座ってればいいからってお兄さんが言うから、言うとおりに公園のベンチに座っていると、若い男の人が現れて、一緒にどこか行かない? と誘われた。夜の街で、一人座っている女の子に声をかける男の人なんて怪しいから絶対についていかないはずなのに、自分はついていった。自分はもうお金がなかったから。男の人がお金をあげるからって言うから。だから言うとおりについていった。
初めてのSEXは、最初、何をされるのかわからなかった。男の人が初めてなんだ~? ってなんか嬉しそうに、すごく優しく抱きしめてくれた。他人なのになんだか嬉しかった。
それからずっと体を売り続けている。夜の街をぶらついて、おじさんたちに声をかけられたりして、ホテルに行って金を貰って体を売る。売春をずっと続けてきた。
身なりも随分変わった。男の人たちからプレゼントされたブランド物で着飾り、髪型も大人っぽくしてもらったりして、自分でもキレイって見惚れてしまうような女の子になっていた。体を売るって嫌なことだけど、でもそれしか生きる方法を知らなかった。
自分が堕落していったのもそこからだ。酒、タバコ、援助交際、売春……。毎夜毎夜、クラブに通ってお酒を飲み、体を壊すまで飲んだこともあった。一度だけ、仲間の女の子が勧めてきた麻薬に手を出したが、すごく気持ち悪くなったので今はもうやってない。
夜の街はもうすぐやってくるクリスマスカラーと光でデコレーションされていて、とってもキレイだった。そんな街の夜景を楽しみながら、いつも座って客を待っている公園にまで足を運ぶ。昔の考え事をして歩いていたものだから、すぐには気付かなかった。街頭の人並みを避けてこっちに一直線に向かって走ってくるその子に。
「そこの人!」
「えっ……?」
自分の歩く前方でどいて、どいてっと叫んでいる女の子のその声に思考が現実に引き戻される。女の子のその叫ぶ声は、なんだか懐かしい響きがした。そんなことをゆっくりと思ったものだからますます反応が遅れた。
「うぐぅ~……どいて~!」
女の子と正面からぶつかって目の前が暗転した。ぶつかって倒れこむ女の子。ちょっとヒールの高い不安定な靴を履いていたから、自分までよろめいてこけてしまった。
「ひどいよぉ……避けてって言ったのに~」
女の子の情けない声が聞こえる。身を起こすと、中学生くらいの小さな女の子だった。とりあえず「大丈夫?」と声をかけて身をおこしてあげた。こんな時間に小さな子が何をしているのだろう? そんな疑問を浮かべていると、
「大丈夫? 怪我はなかった?」
「うぐぅ……鼻がいたいよぉ~」
涙目で痛みを訴える女の子。よく見ると背中から羽が生えていた。
……羽?
「その羽……」
「……あっ!」
背中についている羽について聞こうとしたら、振り返った女の子が声をあげて、
「と、とりあえず話はあとっ!」
「えっ?」
手を掴まれて、そのまま引っ張るように女の子が走り出す。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待てないよ~っ!」
夜の繁華街の人混みを書き分けるように、奥へ奥へと入っていく。
――なんだろう、これ。前にもあったような。
どこかひっかかる。既視感、だろうか? 最近の不思議な感覚を思い出させるような……何か。
何故か分からないけれど女の子の手を振り解くことができなかった。ただ女の子に引っ張られるまま、成り行きのままに一緒に走らされる。
「ねぇ! 一体どうしたの!? なんなのいったい!?」
手を引っ張って走る女の子に声を張り上げる。
「追われてるんだよ……」
「えっ……?」
「……」
それっきり女の子が口を閉ざし、引かれるままに繁華街をまた走り抜けていく。
知っている街とはいえ、めまぐるしく変わっていく風景にどこをどう走ったか分からない。ただ女の子の背中と、背中の羽だけが視界に飛び込んでくる。
「こ、ここまで来れば、大丈夫、だよね……」
二人ともさんざん走り回ったから(この子のせいで)膝に手をついて、はぁ、はぁ、と肩で息をつく。真っ白な息が断続的に吐き出され、あたりを埋め尽くす。
「足が痛い……」
ヒールが高いから、走りづらいことこの上ない。走ってる最中に何度も足をくじきそうになった。
「一体、なんなの……?」
息も途切れ途切れになって、女の子を問いただそうとする。
「……」
無言で、ずっと自分の方を見つめてくる女の子。改めて女の子を見てみると、背中の羽はリュックから生えているものだった。年齢は自分より下だろうか。少し小柄な女の子だった。頭につけている赤いカチューシャが印象的だった。
――なんだろう、この子。どこかで……。
最近の自分は何かおかしい。どこかで同じことがあったような気がするとか、見たことあるとか。一体この既視感はなんなのだろうか。
さっきからずっと黙り込んでいた女の子がようやく口を開いた。
「……追われてるんだよ」
不安なのか、背中の羽がパタパタと動いている。変な羽だ。
「誰に?」
すこしためらったあと、女の子が、
「それ以上は、ボクの口からは言えないよ……。だって、無関係の人を巻き込みたくないからね」
……思いっきり巻き込んでると思う。
ふと、女の子が大事そうに抱えている茶色の紙袋の存在に気付く。
「何、それ?」
茶色の紙袋を指差す。
「こ、こ、これは、ね。なんでも、うん、な、なん、なんでも、ない、ないんだよっ!」
明らかに女の子が動揺して声を詰まらせる。羽もパタパタとニワトリのようにじたばたさせている。
「……中身は何?」
明らかに怪しいので詮索してみたくなった。
「えぇっ! べ、べつに、たいしたものは入ってないよっ!」
なにか大事なものが入っているらしい。それで追われてる……。
「……あっ!」
また女の子が声をあげた。
「ごめんね、話はあとっ!」
女の子が腕を引っ張ってくる。そういえばなんでこの女の子に振り回されているのだろう自分は。なんてことを考えていると、
「うぐぅ……と、とりあえず、この中に入ろっ!」
「えっ? ちょ、ちょっと待ってよ!」
女の子に引きずられるような形で、そばのファーストフード店に入る。
「早くっ、早くっ!」
先に入っていった女の子が、ふたり掛けの椅子に座って手招きしていた。普通、ファーストフード店って先に注文してから席に座るものじゃ……と思うも、仕方なく、なんで仕方ないのか分からないけど女の子に付き合って、女の子と向かいの席に座ることにした。
「普通のお客さんを装うんだよっ」
なるほど、誰かに追われているからここでやり過ごすつもりらしい。でも、こんな夜中に女の子ふたりが入ってたら、普通には見えないと思うけど。こんな時間にこんな繁華街で警察とかにあったら、間違いなく職務質問だろう。警察は自分たちの商売敵だから嫌だ。
「あっ……!」
店の外を覗き込む女の子の表情が強張り、紙袋を抱える手にも力が入っていた。追いかけている人が店の前に来たのだろうか。どんな人なのかと覗いてみると、人のよさそうで、少し頭の薄い、それで何故かエプロン姿を着たおじさんだった。
「あのエプロン着たおじさんに追いかけられてるの?」
聞いて見ると、明らかに女の子が動揺を示した。
「……そうだよ」
あたりをじっと見回すエプロン姿のおじさんは、しばらくするとあきらめたのか、そのまま来た道を引き返していった。
……なんだろう。こんなこと前にもあったような気がする。
「うぐぅ~怖かったよ~」
エプロン姿のおじさんがいなくなったのを確認して、二人店を出る。
「あのおじさん、なんでエプロン姿してたのかな……?」
「たぶん、たい焼き屋さんだからだよ」
しばし無言で見つめ合うふたり。たい焼き屋に追われている女の子、その女の子が大事そうに抱えている紙袋。それだけの単語なのに、なぜか符合が一致した。
「……たい焼き盗んできたの?」
「……」
女の子が黙り込む。少しの沈黙の後、女の子が口を開く。
「大好きなたい焼き屋さんがあって、たくさん注文したまではよかったんだけど……」
もじもじと言いづらそうに言葉を続ける女の子。
「お金を払おうと思ったらお金がなくて、それで走って逃げちゃったんだよ……」
「食い逃げ……?」
「うぐぅ……仕方なかったんだよ~」
「お腹すいてたの?」
なんとなく、そんな理由が思いついた。
「あ、そうだ」
ぽんとミトンの手袋をあわせて、今まで大切そうに抱えていた"窃盗物"である茶色の紙袋の封を開ける。
「わっ、やっぱりたい焼きは焼きたてが一番だよねっ」
袋から湯気が立ち上るのを鼻でかいで、女の子がますます嬉しそうな表情をして、ひとつつまんでたい焼きを取り出す。
「返した方がいいんじゃないかな?」
「ね、あなたも食べる?」
女の子はたい焼きに夢中で、自分のかけた声などお構いなしだった。
「やっぱり返そうよ……。なんなら一緒に行ってあげるよ?」
なんでこんなにお人よしなんだろう。いつもだったらこんな発想ぜったい浮かばない。
「はぐ……おいしいねっ」
すでに女の子はたい焼きを口に運んでいた。
「って、食べちゃだめだって!」
「うぐぅ……でも、たい焼きは焼き立てが一番おいしいって……」
その意見には賛成だけど、でもそれはお金を払って買った人が言う台詞だと思う。
「……どれくらい盗んできたの?」
袋の中を覗いてみると、中にはたい焼きがぎっしり詰まっていた。
「これ、一人で食べるの?」
「うんっ」
たい焼きをほおばりながら、満面の笑顔でうなずく。
「……太るよ?」
「うぐっ……」
たい焼きの頭をくわえたまま、女の子の動きが止まる。
「ボ、ボク、そんなの気にしないけどねっ、うん。でも……だから、はいっ。ボクからのおすそわけだよっ」
「えっ? あ、うん……」
断りきれずに結局貰うことになった。たい焼きは好きだからいいけど。
女の子から貰ったたい焼きを口に運ぶ。たい焼きは好きだからよく食べているけれど、どこか懐かしい味がした。
「ボクはあゆだよ」
くすねてきたたい焼きを一緒にほおばりながら、女の子が話しかけてくる。
「月宮あゆ」
「えっ?」
一瞬、女の子の言葉がなんなのか分からなかった。だって、すごくびっくりしたから。
「あなたの名前は?」
「え、えっと……」
だって、
「……月宮、あゆだけど?」
「えぇ!?」
女の子がすごい顔して驚く。
「ホントに、月宮あゆなの!?」
「う、うん。そうだけど……」
正直、自分でも信じられない。同姓同名だなんて。
「すごい偶然だね~」
本当にそう思う。不思議、本当に不思議。道端でたい焼き食い逃げしてる途中の女の子にぶつかって一緒に逃げたその子と同姓同名なんて。テレビとかに出れそうな話だ。
名前は? 年齢は? 血液型は? 誕生日は?
話はどんどん弾んだ。
そして、その何もかもが同じだった。
「信じられない……」
唖然としてしまった。ここまで同じなんてありえるだろうか。女の子もほうも信じられない様子だ。というより目の前の幼く見える女の子が自分と同い年だったなんて。
「偶然だね~すごいよっ」
女の子がすごく嬉しそうだった。だって、こんな不思議なことってまるで出来すぎたお話みたい。いつの時代も女の子に限らず人間って不思議な話が好きなのだ。
「ボクたち、仲良くなれそうだねっ」
「そうだねー」
ここまで一緒だと本当に親近感がわいてくる。なんだか家族みたいな、自分を見ているような不思議な錯覚さえ抱いてしまう。
「あゆ~」
二人いっせいに呼ばれた方を向く。
「あれ~、どうしたのこんなとこで?」
「あ、さやかちゃん」
さやかちゃん。彼女もまた自分たちと同じ人間だ。
「この子は?」
「えっ、ボク? ボクはあゆだよ」
「あゆ?」
首をかしげるさやかちゃんに、自分たち二人ともクスクスと笑みを漏らす。
「不思議なんだよー。一緒の名前の女の子なんだよ」
「そう、不思議なんだよ」
なにせ、血液型、誕生日、年齢まで同じなのだ。それを説明するとさやかちゃんもすごく驚いていた。二人ともなんだかもう仕事どころじゃなくなっていた。
「なんて呼び合えばいいかな?」
おんなじ名前のおんなじ女の子。なんとなく幼そうに見えるもう一人の月宮あゆ。だから、
「あゆさん」
「あゆちゃん」
こっちがお姉さんになってしまったみたいだった。
「じゃあ、これでさよならだねっ」
そういえばこんな真夜中にあゆちゃんは何をしていたんだろう? ……食い逃げだけど。でもこんな真夜中のこんな繁華街にいるなんて、ちょっと不安だった。疑問に思ったけれど、
「また会えるといいね」
「うん」
そのまま元気に手を振って走っていくあゆちゃん。疑問に思ったことを訊ねることはできなかった。
名前も、年齢も、血液型も、誕生日も一緒の不思議な女の子との付き合いはその日からはじまった。
「さて、あたしたちも行きますか」
そうだ、もうこんな時間。早く仕事をしないと。
「じゃねっ」
高いブランド物のマフラーをなびかせて、さやかちゃんが歩いていく。こっちも、いつもの公園まで戻るため歩き始める。
ベンチに座って男の人に声をかけられるのを待っているのはいつものことだ。自分から声をかけたりせず、声をかけられるのをベンチでずっと待っている。ある日、男の人が言っていた。「なんか寂しそうで切なそうで、待っててくれてるみたいで、思わず声をかけちゃう」って。待つ女、ようするにそれがそそるんだろう。
ドタバタしてて公園に来る時間が遅れたからか、結局、今日は誰も声をかけてくれなかった。まぁいつものことだけど。
ブランド物で着飾って、女子大生のようなちょっと大人な女の子を装う。そんな自分に少し酔っていた。鏡を見ると、いつも綺麗な自分。でもその鏡の向こうの自分は笑っていない。笑顔がどうしても作れなかった。男の人たちはそれがいいという。憂いを秘め、ただひたすら待ち続ける女の子。それがいいのだという。
そんな自分と同姓同名でありながら対極の存在の女の子と昨日であった。話をすると本当に楽しい女の子だった。元気で、明るくて、自分にないものを彼女は持っていた。自分に足りないものを持つ人間に出会えたことは喜ばしいのかもしれない。人間はそんな自分にはないものにこそ魅力を感じるのだから。
彼女とまた会いたい。会って話をしたかった。また会おうと言ってくれた時、ちゃんともう一度会う約束をしておけばよかったと後悔した。もう二度と会えないかもしれないのに――。なんだか鏡を見ても顔色が悪い。いろいろな感情の色が混ざり合うと汚い色になるのだ。
そんな複雑でいろんな感情がまざった気分でいつもの溜まり場――といったらおかしいだろうか、『ハーレム部屋』のドアをノックする。自分の名前を告げるとドアが開く。
「それでねっ、ボクがねっ……」
「あははっ、そうなんだーっ」
なんだか部屋がいつもより賑やかだった。
「あっ。あゆさん、こんばんはっ」
「えっ……?」
同姓同名の彼女が、そこにいた。
「えっ、えぇっ!?」
いきなり彼女が現れたのもそうだが、まさかこんな普通の人間が入ってこないような『ハーレム部屋』にくるなんて。雑居ビルの三階にあるこの部屋は、こんな女の子が笑顔で来るような場所じゃ絶対無い。
「あははー、あゆっ」
さやかちゃんが手を振っていた。
「さ、さやかちゃん、もしか、して……?」
「道端でバッタリ会ったんだよねー」
「うん、会ったんだよっ」
二人ともうんうん言って頷きあう。なんだか自分を驚かせて楽しんでいるみたいだった。
「さ、さやかちゃん、こんなところに連れてきちゃ……!」
「まーまーいいじゃない。それよりあゆちゃんって本当にいい子だねー」
それに部屋中の女の子たちもうんうんと頷きあう。聞けば、日没時にばったりとさやかちゃんとあったらしくて、意気投合して、それでここまで連れてきちゃったらしい。さやかちゃんってそんなキャラだったっけ……。でもまぁ本人が楽しければそれでいいのかも……。
「よ、よくないよやっぱりっ」
本当のことを言うと、自分がこんな部屋に出入りしてることをこの子に知られたくなかった。
「だって、みんなのやってることってさ……」
言いかけるとさやかちゃんがウインクした。
「大丈夫よー。可愛い女の子の秘密は漏らさないもーん」
「えー、ボク知りたいよー。ボクだって女の子なのにっ」
「あゆちゃんは可愛いけど、ボクッ子は女の子かなー?」
女の子だよっ、ボク、ボクなんて男の子みたい、違うよっっと痴話喧嘩が始まり、みんながそれで盛り上がる。本当にみんな楽しそう。みんなのこんな笑顔初めてみたかもしれない。
と、そのときドアのノック音が聞こえた。
『入るよ~』
「やばっ! お兄ちゃんが来ちゃった。あゆちゃん、隠れてっ」
「えっ、わっ、わっ!」
女の子たちが無理やり部屋のコートをかけるロッカーに彼女を押し込み、ロッカーを閉じる。
『うぐぅ~』
彼女の悲痛な叫びがロッカーから漏れる。シーッっと女の子たちが一斉に声を出さないように促す。
「あれ? 誰かいたの?」
いつもお世話になってるお兄ちゃんが不振に思って部屋を見渡す。お兄ちゃんはどこかの組織の一員で、自分たちの面倒を見てくれたり、『仕事』の斡旋とか、みかじめ料を収めたりするときの世話をしてくれる。家族の居ない自分たちにとっては家族同然の存在でもある。
「え、ううん。何もないけど?」
「そう? それならいいんだけどさっ」
お兄ちゃんも興味をなくしたのか、すぐに女の子たちに仕事の斡旋を始める。今日はここに行ってね、とかまぁそんな感じだ。自分はというと彼女のことがバレるんじゃないかと、そして自分のやってることがバレるんじゃないかととても不安だった。
せっかく得た友達を、失いたくなかった。
でも、
友達だから、だからこそ言わなければいけない。でもいえない――何度も飲み込んだ言葉。何度言おうと思ったけど、やっぱりいえなかったこと。罪の告白。穢れている自分。それを告白することが、彼女にはどうしてもできない。
彼女は自分にとってとても不思議な存在だった。彼女は何の前触れもなく現れる。約束なんてしない。だって、会えるって信じているから。きっと信じていれば、必ず会える。彼女はこんな時間のこんな場所でいつも何をしているのだろう? でもそれはどうしても聞けなかった。だって、それを聞いたら自分も言わなければいけないから。
いつしか彼女とは約束もせずに会うことが不文律の仲になっていった。
彼女と話をすると元気になれた。仕事の愚痴とかは言えないけれど、たくさんの男の人と付き合ってきたと言って、男の人たちとの話を聞かせたら、「あゆさんは綺麗だからねっ」って言ってくれた。でも自分には彼女こそ本当に輝いて綺麗に見えた。闇の、薄暗い、社会の隅で生きている自分たちとは違う。決定的に違う。まぶしい光の存在。まるで羽リュックが翼みたいに自由に空を飛べる天使のような存在だった。
自分は黒の闇。ならば、彼女はそう――自分にとって白の光だった。家族のいない自分にとってはかけがえのない存在にまでなっていった。自分たちの関係は短期間の間にすごい速度で進展していた。
その速度を保ったまま、いや、ぐんぐんと加速して、同姓同名の自分たちはまるで同化していく様に。だが自分の憂い、穢れた秘密が壁となっていたのだ。あんな純白で穢れの知らない彼女を、穢れた自分がこれ以上彼女と一緒になってしまってもいいのだろうか。激しい炎のような想いもまた加速的に燃え上がっていた。
学生で言うと冬休みの中ごろ、年末年始の頃だった。会えると信じて歩いていて、やっぱり会えて、それでいつものように話をしながらウィンドショッピングなんかしてたりした。年頃の女の子ってやっぱりこういう関係だと思っていたから。そしてそれは同時に憧れでもあった。
「あ~ゆちゃんっ」
不意に、後ろから声をかけられた。
「ふぇ?」
二人同時に振り返ると、にこにこした男の人がこっちを見ていた。
「あ~ゆちゃん、最近会ってなかったね~。今日は久しぶりだから、一緒に遊ばない?」
ああ、嫌だ。この男の人は仕事での自分を求めている。この子の前でこんなところは見せられない――
「行こうあゆちゃん……」
無視して歩き去ろうとした。だが男の人は強引にドラマティックな展開の始まりの言葉を告げたのだ。
「あれ~? この女の子も新入り~? 初めてだったら、優しくしてあげるよ?」
「初めて? 何、それ?」
本当に何も知らないのだ、彼女は。
「あれ~? 知らないんだ~、可愛いねー。でも、今日はあゆちゃんと遊びたいんだけどな~、困ったなぁー」
男の人が考え事をしている。逃げなきゃ、でも彼女は立ち去ろうとしない。
「うぐぅ~。おじさん、ボクと遊ぶの? 何して遊ぶの?」
ああ、やめて。
「ありゃりゃ、可愛いね~。よーし、お兄ちゃんと一緒に三人で遊ばない? プレゼントだって、何でも買ってあげるし」
「あ、それってダメなんだよ。知らない男の人に何かあげるって言われてもついていっちゃダメってお母さんに言われてるもん」
「あははっ、あちゃー。本当に可愛いねー」
男の人がますます気に入った様子で彼女に囁きかける。
「男の人と遊ぶのって、とっても楽しいことなんだよ。隣のあゆちゃんもね、楽しいって言ってくれてるし。あゆちゃんは先輩だから、ちゃんと言うこと聞かないとな~?」
「えっ……? あゆさ――」
やめて――
気付いたときには無理やり彼女の腕を掴んで走っていた。
「わっ! あゆさん、どうしたの!?」
無言で彼女の手を引っ張って繁華街を走り抜けていく。
知っている街とはいえ、めまぐるしく変わっていく風景にどこをどう走ったか分からない。ただ女の子の小柄な体が視界に入ってくる。
ああ、やっぱりダメだったんだ。こんなところにいるから、こんなところで一緒にいるからいけなかったんだ。
どこをどう走ったか分からない。ただ、この街から出たかった。
気がついたらどこだか分からない公園にいた。
二人ともさんざん走り回ったから膝に手をついて、はぁ、はぁ、と肩で息をつく。真っ白な息が断続的に吐き出され、あたりを埋め尽くす。
「ど、どうしたの……?」
「……」
こうなることは分かっていた。いつかは言わなければいけなかったのだ。
一息ついたところで、彼女に話し始める。
「……嫌なところ見せちゃったね」
「えっ……?」
とまどう彼女。ああ本当に何も知らないのだ、彼女は。
「こういう仕事をしてるの。男の人たちと遊んで、プレゼント貰って、お金貰って、どこかのクラブでお酒飲んで……それで」
一息に言い切って、言葉を区切って、そしてその言葉を吐いた。いつかは言わなければいけなかった言葉を。
「体を売ってるの。男の人に体売って、それでお金貰ってるの」
彼女は、絶句していた。
「あそこにいる女の子たち知ってるでしょ?」
彼女は無言だ。ぽかーんと口をあけたまま絶句している。
「あの子たちもそう。みんなおんなじ。みんな同じことやってる」
なんて嫌な奴なんだろう。ツケ口だ、チクリ魔だ、最低の行為だ。彼女たちは関係ないのに。かわいそうなだけなのに。何の罪もないのに。
「あの子達ね。可哀そう子なの」
いつの間にか、涙があふれ、そして流れていた。
「親がいないとか、虐待されてたとか……さやかちゃんもそうだよ。昔、親にタバコの火を押し付けられたり、親に無理やり犯されたりして……みんな、みんな可哀そうな子たち」
なに可哀そうぶってるの? なに、なんなのこれ。可愛い女を演じるのは仕事のときだけにしてよ。ありきたりでつまらないドラマをチャンネルを変えるのもダルいからそのまま見ているような、そんな錯覚を抱いてしまう。
「……ボクも……いない」
言ったのは、もう一人のあゆ。
「……ボクも、お母さんがいないんだ……」
それでも、それでも彼女は必死で笑顔を見せてくれる。痛々しい笑顔を。泣きながら笑顔を見せてくれる滑稽な女の子。
「ずっと一人ぼっちだったんだ……」
なんだ、自分たちは一緒じゃないか。名前も、年齢も、血液型も、誕生日も、なにもかも一緒だったじゃないか。
「なんだ……一緒だね」
「えっ……?」
彼女が驚いたように自分の方を見つめてくる。さっき、あの部屋にいる子たちはみんな可哀そうな子って言ったの、もう忘れてる。ドジでおっちょこちょいであわてんぼな子だから。
「お母さん……いないよ」
お母さん。お母さんについて考えたのは何年ぶりだろう。ずっとずっと、憎み続けて、憎んでる自分も嫌で、だから考えなくなっていった。
「ねぇ……」
彼女が向き直って、今まで見せたことない真剣な顔でたずねてくる。
「お母さんに会いたいって……昔のことを変えてでも……それでも会いたいって思う?」
なんだろう、この質問。なんだか、心に響く。とても重要な問題であり、同時に自身の罪を問われているかのような。
過去を変える。運命に抗う。何度か考えたことだ。お母さんさえいれば、あんな親のところに引き取られなければこんな、こんな暗い人生を送っていなかったはずだ、と。
「無理だよ……それに、しちゃいけないんだと思う」
「……どうして?」
「だって、だって……」
涙が止まらない。自らの犯した罪を償うことはできないのか。過去を変える、そんなこと人間がしてもいいのだろうか。いや、人間の無粋な手で運命や過去を歪めてしまったら、きっと何らかのひずみがうまれるから。……もしかしたら。そして、その考えに至った。長年疑問だった奇妙な感覚の正体。
――過去を変えたから、こんな人生を送っているのでは?
フラッシュバックする光景。走馬灯のように流れていく風景。時が流れ出す。
とても悲しい思いをしていた。そんなとき、慰めてくれた男の子がいた。その男の子と一緒に秘密の隠れ家みたいな場所でずっとずっと遊んでいた。自分はその男の子が大好きで、ちょっといじわるだけど大好きで、でももうすぐ自分の家に帰ってしまう。それが悲しかった。
男の子と会う最後の日。自分は大きな木の上にいた。そこの枝に座っていた。隠れ家は学校だった。男の子は遅刻していた。
しばらくして、やっと男の子はやってきた。男の子はなにか包みをもっていた。
遅いよ、と声をかけようとしたとき、自分の体が宙を舞った。堕ちていく自分。穢れていく自分。染まっていく自分。男の子が声をかけてくる。ああ、自分は木から落ちたんだ。血がまとわりついてくる。意識が遠のいていく。男の子が小指を出してくる。「約束だから……」また会おう。そう約束したのだ。
男の子からのプレゼントは赤いカチューシャだった。次に会うときはこれをつけて会いにいくと、そう約束したのだ。
「そっか……そのカチューシャ……」
もう一人のあゆが頭につけている赤いカチューシャ。そういえば自分も昔につけていたことがある。男の子と最後にあった日にプレゼントされた赤いカチューシャ。いつからか、男の人からプレゼントされたもので着飾るようになってつけなくなったあのカチューシャはいまどこにあるだろうか。
「これ……」
彼女が、カチューシャを取り外して手に取る。
「大切な人……大切な人にもらったんだよ……」
やっぱりそうだった。似てる、何もかも似てる。いや、似てて当たり前なんだ。
次々と回想されていく。たい焼きを食い逃げしていて、それで大きくなった男の子にまた出会って。一緒に探し物をして遊んで、それで好きになって。
別れもあった。辛い別れ。つらい思い出。
大きな切り株。失われた自分たちの学校。男の子から渡された天使の人形。残された最後の願い。自分にはもう時間がない。もうすぐ、ここにいてはいけない自分はもうすぐいなくなってしまう。
辛かった。お母さんを失って、男の子に辛い思いをさせて。もう永遠に会えなくなってしまう。消えたくない。彼と一緒にいたい。ずっと一緒にいたいのに。
お母さんと会うために、男の子と、また会うために。
過去を変えてでも、運命に逆らってでも、それでも会いたい人、一緒にいたい人が自分にはいたのだ。
電車に揺られて車窓から外を見やる。雪化粧に覆われた町並みが見えてきた。この街に来るのは何年ぶりだろう。たしかお母さんの墓があったけれど、一度も行ったことがなかった。
あの女の子とはあの日から会っていない。「もう会えなくなるんだ」彼女もまた秘めていたことを告白して、自分の前からいなくなった。隠し事をしていたのはどうやらお互い様だったらしい。今頃はどこにいるのだろう?
――たとえば、心の中にとか? なんて。
7年ぶりにやってきたというのに町並みはぜんぜん自分の知っている以前の町並みとは変わっていなかった。腕時計を見るともうすぐ待ち合わせの時間。そろそろ一緒に学校に登校するいつもの時間だ。懐かしいベンチに座って、その時を待つ。
――待ち合わせ場所は、学校。
こんな約束を以前にした。だから、再開は、学校で。
街から離れた森には30分ほどでついた。森の中の道なき道を男の子と一緒に進んだ頃は、どこを通っているのかわからないままに秘密の場所に行っていたけれど、今は自分で行かなければならない。歩きづらかったけれど、ちゃんと靴も歩きやすいのに変えてある。男の子から最後にあった日にプレゼントされたカチューシャもつけている。部屋で埃をかぶったそれを見つけたときは嬉しくて懐かしくて涙が出た。
森を抜けると、そこには空間が広がっていた。そびえる大木。そこだけ時間の止まったように以前のままの空間が最後に男の子と別れたあの日のままあって、ちょうど7年後のその日に自分はいて、大きくなった男の子がそこにいて、おかえりって言ってくれて。
だから、ただいまって。それが、二人の再会。
<了>